梅ちゃん先生2012年04月03日 09時24分

 NHK朝ドラ、お約束のドタバタで始まりましたね ^^

 セーラー服姿のヒロイン(堀北真希)が、ALWAYSの六ちゃんみたいな東北なまりで話さないことに、少し違和感を覚えました(笑)

 母親役の南果歩さんが、良いなあと思いました。『ニライカナイからの手紙』の優しいお母さんと同じ雰囲気です。南果歩さんで『ニライカナイ』のことを思い出して、私が先月、一年ぶりで東京に出た時に感じたことと、つながりました。

 私は静岡出身で、高校を卒業してから過ごした場所も札幌や名古屋でしたから、東京に出た時にはいつも、東京を特別な場所に感じていました。でも、東京で働くようになってからは、そのような特別な感情は無くなりました。

 『ニライカナイ』ではヒロインが沖縄県の竹富島から東京に出て来ます。『ニライカナイ』を初めて東京で観た時、私は既に東京に慣れていましたから、そのヒロインが感じた「特別な東京感」を十分に感じ取ることが出来ていなかったように思います。

 しかし、先月、一年ぶりで関西から東京に出た時、昔感じていた「特別な東京感」を思い出しました。その特別感がうまく整理できないでいましたが、『ニライカナイ』を思い出して、つながりました。

 東京って、やっぱり特別な場所だと思います。

『カーネーション』、良かったです2012年03月31日 20時32分

 毎日楽しみに観ていた『カーネーション』が終わってしまいました。テレビが無い横浜の寮にいる間も、ワンセグに録画して観ていました。3月以降も夏木マリさんが良い味を出していたと思いますし、音楽も良かったし、それに脚本が抜群に良かったと思いました。

 音楽は、『ALWAYS 三丁目の夕日』と全く同じ曲が使われていた場面もありましたが、私はALWAYSの音楽も好きですから、全く違和感を感じずに楽しめました。

 今日のラストシーンも、味がありました。

 説明抜きで老女が朝ドラを観ているシーンで終わりましたが、幼なじみの奈津と糸子との友情を思わせる良いシーンでした。番組の終盤で聖書の「受けるよりも与えるほうが幸いである」(新約聖書・使徒の働き20章35節)という言葉を糸子が気に入っているシーンがありましたが、まさに糸子は受けるよりも与えた人生を過ごし、そのことで逆に彼女自身も多くのものを受けた生涯であったと思わせるシーンでした。

 連続ドラマの場合、全体的には良くてもラストがイマイチということが、たまにありますが、『カーネーション』の場合は、最後まできっちりと楽しませてくれて、本当に良い作品だと思いました。(拍手)

最近の『カーネーション』2012年01月14日 10時25分

 NHK朝ドラの『カーネーション』を毎朝見ていますが、ヒロインの糸子が歳を重ねて人間的な深みが出て来るにつれて、ドラマもますます深く面白くなっていると感じます。

 いま放送しているのは戦後の混乱期から少しずつ脱しつつある時で、前向きに歩き始めている人、自暴自棄になっている人、まだ立ち上がることができないでいる人など、いろいろな人々の中で糸子が思い悩む様は、少し重いですが深くて、心の奥底に響いて来ます。良いドラマに感謝です。

 さて、今夜は『とんび』の後編があります。先週の前編は素晴らしいと思いましたから、今夜の放送が楽しみです。

『とんび』前編(NHK)2012年01月07日 22時31分

 面白かった・・・
 
 別格とも言えるほど、頭抜けて良い作品だと思いました。

 後編が楽しみです。

『看取りの医者』2011年12月13日 07時03分

 昨晩、放送されたドラマ『看取りの医者』を観ました。家族にとって大切な、しかし難しい問題を丁寧に撮った佐々部監督らしい作品だと思いました。喜怒哀楽のすべてに不自然さが全くない大竹しのぶさんの演技にはもちろんのこと、劇団巌流第二級の皆さんの演技がレベルアップしていることにも感服しました。

 吹越満さんは北極星が見える北半球限定の人?とか、少し「オヤ?」と思う所はありましたが、ドラマ自体は素晴らしく、5点満点だと思いました。

 しかし、日本人の宗教との関わり方という点においては、残念に思わざるを得ません。「生まれた時は神道、結婚式はキリスト教、葬式は仏教」とは良く言われることですが、余命わずかの時の病床、そして臨終という肝心な時に宗教者が不在というのは、何とも寂しい限りです。

 キリスト教であれば牧師なり神父なりが病床を見舞い、聖書を開き、祈りの時を持ちます。聖餐式を執行することもあります。そして臨終の時も間に合えば立ち合い、やはり聖書を開いて祈ります。開く聖書箇所は、その方、その時にふさわしい箇所が選ばれます。私が家族の臨終の場に立ち会う時には詩篇23篇を開きたく思います。

 今回のドラマを観て、最期を病院で迎えるか自宅で迎えるかということ以上に、その時に宗教者が不在であることが当たり前になっていることの方が、大きな問題のように私は感じました。

 10年前、父が膵臓ガンで死ぬ間際に家族で葬式の相談をした時、私は父がクリスチャンであることを初めて知りました。若い頃のキリスト教ブームの時に教会で洗礼を受けていたのだそうです。しかし、家族の誰も教会とつながりがなかったので、葬式はお寺で行いました。

 クリスチャンなのに仏式でいいの?という疑問が私が10年前に教会に通い始めたきっかけでした。つまり、日本人の宗教感覚への疑問が私の信仰の出発点でした。

 そんなことも思い出された『看取りの医者』でした。

『坂の上の雲』2011年12月12日 06時58分

 今夜の『看取りの医者』、楽しみにしています。

 さて表題の『坂の上の雲』、一昨年と昨年はテレビのない寮暮らしでしたから放送時は観ていませんでした。今年はテレビのある暮らしで、これまで何度も再放送がされたので、それらをしっかり観た上で今回の第三部に臨んでいます。今年は放送と同時に観られて、うれしいです。

 とは言うものの、今回の第三部は旅順・二○三高地での壮絶な戦争シーンが延々と続く、とても重苦しいものです。平和の尊さを改めて感じさせられます。そして、原爆資料館のタイル画「平和のキャラバン」の左右の真ん中に自分のタイルがあることを、ますます強く意識しています。

 年内に第一稿を完成させる予定の卒論は今、八合目付近にいます。人々の心に平安(平和)を与え、皆が一つとなるためにイエス・キリストがこの世に生まれたことを、しっかりと書き込まなければならないと思っています。

 イエス・キリストの十字架が、人の罪を赦すためであることは確かですが、教会のメッセージの多くはそこ止まりになっていると思います。罪が赦され、聖霊が注がれることで心がきよめられ、心に平安が与えられ、そのことで争いの心が取り去られ、皆が一つになることこそが目的だと思います。このことが、もっと強く意識され、強調されなければならないと思います。そのことを卒論にしっかりと書いて行きたく思います。

 「互いに愛し合いなさい」
 「彼らを聖なる者として下さい
  それは、父よ、彼らがみな一つとなるためです」
 「あなたがたに平和があるように」
 (ヨハネの福音書のイエスの言葉より)

『看取りの医者』2011年12月08日 12時47分


 佐々部監督が演出したドラマ『看取りの医者』がTBS系で12月12日午後9時より放送されるそうです。

 劇団巌流の皆さんも多数ご出演だとか。楽しみです。

 思えば、『告知せず』も『笑顔~15年目の嘘~』も放送時はテレビがない寮にいたので、ワンセグの小さな画面でこっそり見ていました ^^;

 今回は22型ですから、大画面というわけではないですが、普通に見られるので、大袈裟でなく、超ウレシイ!です ^^

『カーネーション』2011年10月31日 09時07分

 今朝から、國村隼さん登場ですね。相変わらず、いい味出してますね。好きな俳優さんです。百貨店の支配人役で、いつまで出演するのか・・・。あまり早く引っ込まないで欲しいなと思います。

 NHK朝ドラの『カーネーション』を毎朝楽しみにしている自分に、何だかんだ言っても私は根性モノのドラマが好きなんだなと、自分を再発見した思いがしています。

 ひと月ぐらい前から卒論の構想に取り掛かっています。良い構想が出来たと思っても1日か2日か経つと、やっぱり駄目だと思い、その繰り返しでなかなか構想が固まりませんでしたが、ようやく固まってきました。

 これから構想に沿って、根性出してガンガン書いて行きたいと思っています。卒論ですが、学校の関係者だけでなく、教会の関係者にも、出来るだけ多くの人に読んでもらえるものにしたいと思っています。

『大仏開眼』2010年04月12日 17時29分

 NHKのドラマ『大仏開眼』の前・後編を見ました。
 登場人物たちが、おのれの無力さを吐露している場面が印象的でした。権力欲から自由になった時、仏に近い者となるということにも共感でき、キリスト教との共通点が見出せて面白く見ることができました。
 しかし、あくまで人間の考えに沿って全てのことが進められ、天の御心がどこにあるのかを求めることがなされていなかった点が気になりました。仏像が天の声を語ってくれれば良いのですが・・・
 キリスト教ではイエス・キリストを信じ、自己中心を悔い改めれば復活したイエス・キリストの霊である聖霊が私たちの内に住んでくださいます。したがって、内なる声に耳を澄ませば、それがすなわち天の声ということになります。もちろん、聞き誤ることは多々あると思いますが、どこから聞こえてくるか分からない天の声を求めるよりは、自分の内に耳を澄ますほうが、遥かに照準を合わせやすいでしょう。

「聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたし(イエス・キリスト)があなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネの福音書14章26節)

『笑顔 ~15年目の嘘~』その32009年12月16日 18時41分

 昨日の日記の続きです。

 昨日、『シークレット・サンシャイン』のヒロインの息子を殺した殺人犯は刑務所の中でイエス・キリストを信じ、そのことにより本人は神により罪が赦されたと信じているが、実は赦されていないのではないか、というようなことを書きました。

 それは、つまりこういうことです。

 神から離れて自己中心となり、その結果として人を傷つけてしまった罪は、イエス・キリストを信じれば、神様は赦してくださいます。これが、罪が赦されるということです。

 イエス・キリストを信じれば罪は赦される、これは真理です。

 問題は、どの程度まで神を信じていれば「信じた」と神様が認めてくださるか、ということです。100%信じていれば問題ありませんが、100%の信仰というのは「きよめの信仰」に立った時であり、それ以前は100%未満だと思うのです。この場合、99%信じていれば合格で98%なら不合格かもしれません。或いは神様はもっと気前が良くて90%信じていれば合格と判定してくださるのかもしれませんし、95%がボーダーかもしれません。

 このように、判定するのは神様の側ですから、本人が98%も信じているんだから大丈夫だろうと思っていても、神様は不合格の判定をしているかもしれないのです。

 『シークレット・サンシャイン』の殺人犯は、自分はイエス・キリストを信じたつもりでいますが、本当のところはどうでしょうか。本当に信じていれば彼は新しく生まれ変わっているはずで、もしそうなら聖霊の働きにより償いの心が生じているはずであり、面会に来たヒロインにも真摯に謝罪したと思うのです。しかし、それが無かったということは、神様はこの殺人犯の信仰はまだ本物ではないと判定して、彼はまだ新しく生まれ変わっていないのではないかと私は感じました。

 フィクションとは言え、『笑顔 ~15年目の嘘~』の主人公の稲葉秀夫(石黒賢)さんがイエス・キリストを信じることを願ってやみません。そうすれば稲葉さんの罪は赦され、稲葉さんは新しく生まれ変わり、心の平安がイエス・キリストにより与えられます。

「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」
(ヨハネの福音書14章27節)