清水で『六月燈の三姉妹』上映会と佐々部監督トーク2015年01月20日 15時26分

『六月燈の三姉妹』
<社会貢献チャリティー映画会 主催:清水法人会>

■ 平成27年2月6日(金)

■ 会 場 : 清水文化会館マリナート/ 小ホール
【第1部】
・シネマトーク 18時~18時50分
 佐々部 清 氏(映画監督)
 平山 佐知子 氏(元NHKアナウンサー)
【第2部】19時~20時45分
・映画上映「六月燈の三姉妹」
 出演:吹石一恵、吉田羊、徳永えり、市毛良枝

■ 入場無料 一般の方も鑑賞できます
 定員:250名先着順(但し入場整理券が必要となります)
 締切日:1月29日(木)

■ お問合せ:清水法人会事務局 TEL054-351-0015
  http://www.s-houjin.or.jp/

愛弟子を救出しよう2014年12月18日 07時54分

 いま私は駿河湾と富士山が良く見える見晴らしの良い海岸のすぐ近くに住んでいます。恥ずかしながら私はここへ来て初めて月の軌道が太陽の軌道とあまり変わらないことを知りました。太陽は季節変動はあるにしても、同じ時刻にはいつもだいたい同じ場所にあります。しかし月は毎日違う位置にあります。

 建物の隙間からしか月を見ていなかった時は、毎日違う月の位置をつなげて考えることができませんでしたから、月の軌道と太陽の軌道との関係に全く気付いていませんでした。しかしこちらでは視界をさえぎる建物がない場所で月を見ていますから、月の軌道をつなげて考えることができるようになりました。

 私たちは多くの場合、建物の隙間から月を見るようにしか、物事を見ていないのではないでしょうか。全体のつながりを考えることなしに隙間の月だけ見て、様々なことを論じていないでしょうか。聖書の読み方も同様です。聖書の各書・章節をバラバラにして読み、全体のつながりはあまり考えられません。

 聖書がバラバラに読まれているため、ヨハネの福音書のイエスが旧約聖書の時代、福音書の時代、使徒の働きの時代を自由に行き来していることに気付かれていません。イエスの愛弟子もまた細切れにされた時間の中で1世紀に閉じ込められています。私たちは、この愛弟子を現代に救出しなければなりません。

2014クリスマス行事のご案内2014年12月11日 08時54分


12月14日(日)クリスマスの集い 午後1時半~
12月21日(日)クリスマス礼拝  午前10時半~
12月24日(水)キャンドル・サービス 午後7時~

場所:インマヌエル沼津教会
http://blog.goo.ne.jp/numazu-c

聖書はなぜ平和の役に立っていないのか2014年10月16日 10時45分

 聖書が平和を説いているのに、なぜ世界は平和にならないのか。聖書はなぜ平和の役に立っていないのか。このテーマについて、ここ何か月か考えて来たが、当初は全く考えていなかった方向で考えがまとまりつつある。

 聖書が平和の役に立っていないのは、聖書を実生活の役に立たせようとする傾向が強すぎるからではないか。実生活の役とは、例えば日常生活の道徳の規範にすることだ。これは聖書の正しい用い方ではあるが、これが過ぎると聖書が描く壮大な世界に思いが行かなくなり、却って聖書の読者の視野を狭める。

 このように考えるようになったきっかけは、2014年10月8日付の朝日新聞デジタルで次のような記事を目にしたことだ。これは青色LEDの作製に成功した日本人研究者にノーベル物理学賞が授与されることになったことに対する、小柴昌俊氏(2002年ノーベル物理学賞受賞者)のコメントである。

「一番うらやましいのが実生活に役立つ発明で受賞されること。私は史上はじめて自然に発生したニュートリノの観測に成功したことで受賞しましたが、これと言って実生活にお役に立ったという実感がありません。自分の発明で人々が幸せになる。その功績でノーベル賞をいただく。このうえない喜びでしょうね。」

 この記事を読んだ時に私は、「小柴先生の研究は平和の役に立っているのに」と思った。小柴氏は宇宙の遥か彼方で起きた超新星爆発で発生したニュートリノを観測した。壮大な宇宙に思いを馳せている時、人は狭い地球上で戦争をすることなど考えないであろう。それゆえ小柴氏の研究は平和に貢献しているのだ。

 飛行機のことを考えてみよう。もし飛行機が空中散歩を楽しむだけの乗り物であったなら、戦争には使われなかっただろう。熱気球やパラグライダーは現代の戦争には使われない。飛行機は道路が無い場所を高速で移動できるという実生活の役に立つ乗り物になったために、戦争に使われるようになってしまった。

 科学者は科学の大空の空中散歩を楽しんでいる時が、一番平和な時であろう。核分裂の発見も、既知の学説では説明できない未知の現象であった間は、科学者は真理の探究を楽しむ平和があった。しかし原子核が分裂して質量欠損が生じていると分かった時、核兵器開発への道が開けて平和ではなくなった。

 『荘子』は九万里の上空を飛翔する雄大な大鵬の話で始まるが、恵子は荘子の話は大きいだけで何の役にも立たないと批判した。それに対して荘子は、こぶだらけで曲がりくねった大木は木材として役に立たないので切り倒される心配もない、君もその木陰でゆうゆうと昼寝でもしたら良い、と諭した。

 聖書の読者の多くは、聖書の大空の空中散歩や、聖書の大木の陰でゆうゆうと昼寝をする楽しみ方を知らないのではないか。聖書の言葉を実生活に役立てることを優先して、役に立たない大きなことにゆったりと思いを巡らすゆとりが無いのではないか。聖書が平和の役に立っていないのはそのためではないか。

 実生活の「過去→現在→未来」という時間の流れを離れて聖書を読むなら、過去・現在・未来が一体になった永遠の中を生きるイエス・キリストの姿が見えるようになる。実生活とは違う永遠の中にいる御父と御子と交わる喜びを味わえるようになって初めて、聖書の読者は平和を作る幸いな者になれるのであろう。

光の三原色と三位一体の神論2014年10月08日 06時47分

 便乗とは軽薄だが、この際、青色LEDに便乗して、以前から温めていた三位一体の神を光の三原色に例える試みを、推進させてみようと思う。青・緑・赤の光から白色の光を作り出せることをマスコミが説明してくれているので、今ならわかってもらいやすいのではないかと思う。なお、以下の例えはヨハネの福音書の理解から得られることである。

 父・御子・聖霊の三位一体の神を青・緑・赤からなる白色光に例えてみたい。ふだん我々が感じている神は白色光である。この白色光を分光すると父・御子・聖霊の性質に分かれて見えるのである。ただし、ここまでの例えなら、私だけでなく多くの人が考えることであろう。面白いのはここからだ。

 預言者・イエス・使徒にはフィルターのような働きがあって、白色光の三位一体の神は預言者を通ると父だけが見えるようになる。同様にイエスというフィルターを通ると御子が見え、使徒のフィルターを通ると聖霊が見える(この場合の「見える」とは霊的に見えるという意味である)。

 ヨハネの福音書がわかりづらいのは、イエスが地上生涯のイエスだけでなく、預言者としても、復活後のイエスとしても、或いはまた御使いとしても登場している点にある(御使いというフィルターは預言者のフィルターともまた異なるのでなかなか興味深いが、ここでは深くは追究しない)。

 以上は単なる例え話であるので青・緑・赤の光が父・御子・聖霊のどれに対応するかまで考える必要は無いと思うが、あえて対応させるとすれば、エネルギーが一番高い青色の光が第一の位格の父、次にエネルギーが高い緑色の光が第二の位格の御子、三番目の赤色が第三の位格の聖霊ということになるであろうか。

『平和と聖書』2014年09月11日 06時47分

(↑画像をクリックすると拡大表示します)

日時:9月15日(月・祝)午後2時~
場所:沼津・千本プラザ
メッセージ:『平和と聖書』

お近くの方は、是非いらして下さい。

時間の荒野を放浪する私たち2014年09月06日 04時27分

 時間は人間の脳の中で組み立てられますから、時間が無いエデンの園にいたアダムが「善悪の知識の木」の実を食べたことで時間が有る世界に追放されたことは、人間がなぜ「流れる時間」の中で苦しんでいるのかを見事に描写していると思います。
 イエスを信じて永遠の命を与えられた者は、この「流れる時間」の苦悩からは既に解放されている筈なのですが、クリスチャンでさえ未だに苦しんでいます。これはモーセに率いられてエジプトから救い出されたイスラエルの民が、カナンに定住するまでの40年間を荒野の放浪で苦しんだ状況と似ているように見えます。十字架から二千年経った今、そろそろ「降り積もる時間」の中で安住すべき時が来ているのだと感じています。

折り鶴2014年08月09日 12時27分


 広島の式典の冊子に入っていた金紙で鶴を折りました。今年の広島の原爆の日は雨で、傘を手にしていたので会場で折ることができなかったのです。

 長崎の式典のテレビ中継を見ながら折りました。核兵器の無い世界、戦争の無い平和な世界の実現を祈りつつ。

「みことばの糸」の解き明かし2014年07月29日 06時30分

 前回の独言でみことばを蚕(カイコ)が吐き出す繭糸に例えたのは、みことばを聞く私たちが過去→現在→未来という線的な時間観に囚われているという含みがある。

 みことばの源泉の神の愛には時間が存在しないが、みことばの糸には人間の線的な時間が伴う。先に語られたみことばは旧く、後に語られたみことばは新しいと人間は判断するが、源泉においては過去・現在・未来が混然としている。それゆえ新約における旧約の預言の成就も不思議なことではない。

 イエス・キリストがみことばの糸を供給するのは霊的に十分に覚醒していない私たちでも神の愛のことがわかるようになるためであるから、神の愛のことが少しでもわかるようになったのなら、いつまでも線的な時間観の中にいるのでなく、過去も現在も未来も渾然一体となった神の愛の中にどっぷりと浸るべきである。

 神の愛に満たされ、線的な時間観の奴隷状態から解放されて自由になるなら、過去の恨みを未来の復讐で晴らす報復の連鎖からも脱却できるであろう。領土や領海を巡る争いも線的な狭い時間観と無縁ではない。人は狭い時間の中で相手よりも優位な位置に立とうと懸命になるが、神の愛の中では優劣は存在しない。

みことばの源泉「神の愛」に浸ろう2014年07月29日 04時44分

『みことばの源泉「神の愛」に浸ろう』
~平和をつくる聖書の味わい方~

 「ことば」であるイエス・キリストの働きを、繭糸を吐き出す蚕(カイコ)の働きに例えてみたい。

 蚕は繭糸の原液を糸にして吐き出す。人間はその糸を拠り、布を編み、衣服等を作る。

 イエス・キリストは「神の愛」という源泉からみことばの糸を人々に供給する。人はそのみことばの糸を拠り、聖書という布を編み、聖書を題材にした本という衣服などの布製品を作る。そして人は、この服はデザインが良いとか悪いとか、着心地が良いとか悪いとか様々に論評し合ったりする。

 しかし、そもそもイエス・キリストがみことばの糸を供給し、聖書の記者たちが糸を拠り、聖書の編者が聖書の布を編んだのは、人々を「神の愛」の源泉に導くためではないのか。生まれながらの人間は霊的に覚醒していないので源泉の存在に気付くことができない。聖書が必要なのはそのためだが、イエス・キリストを信じて聖霊が注がれたなら、源泉の「神の愛」を感じることができるようになる。

 それゆえ聖霊が注がれて「神の愛」に気付いた者たちがすべきことは衣服を着て布地や衣服について論評し合うことではなく、裸になって源泉の湯にどっぷりと浸かることではないか。裸になってすべてを神の愛に委ねる時、私たちの心は平和で満たされる。従って私たちが作るべき布製品は衣服ではなく、温泉の入口の「のれん」である(笑)