9.二つの「わたしは世の光です」2012年06月21日 07時13分

「焼けなかったロゴス ~舞台裏から観たヨハネの福音書」9

 前回のヨハネ10章前半に続く10章後半の舞台裏では、エホヤキム王が神のことばが書かれた巻き物を暖炉の火で燃やします(エレミヤ書36章)。しかし、この出来事はこの読み物の核心ですので後回しにして、今回は二つの「わたしは世の光です」(ヨハネ8章12節と9章5節)の舞台裏について説明します。

 ヨハネ8:12と9:5の二つの「わたしは世の光です」は舞台裏で強力に結び付いています。8:12と9:5の舞台裏はそれぞれヒゼキヤ王とヨシヤ王の時代であり、この二人の王はどちらも善王です。そして、この二人の善王の間にマナセとアモンという二人の悪王の時代が挟まっています。善王の時代にはモーセの律法が重んじられましたが、悪王の時代には重んじられませんでした。そのため、律法の書はマナセ・アモンの悪王の時代に忘れ去られてしまい、ヨシヤの時代には当初は律法の書がありませんでした。その律法の書が、ヨシヤ王の第18年に見つかったのでした(列王記第二22章8節)。ヨハネの福音書8章から9章の本文には、この舞台裏のヒゼキヤ王~マナセ・アモン王~ヨシヤ王の時代のことが、実に巧妙に仕込まれています。

 「世の光」であるイエスは「ことば」であり、舞台裏では「律法の書」になります。イエスは宮の「献金箱のある所」で、「わたしは世の光です」に始まる一連の話をしました(8章12~20節)。そして、21節で言いました。

「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。」(ヨハネ8:21)

 これは、「ことば」である「律法の書」がやがて読まれなくなることを言っています。この「律法の書」はヨシヤの時代に「主の宮に納められた金」(列王記第二22:4)で宮の修理をしている時に見つかったのですから、ヨハネ8:20の「献金箱のある所」は重要なキーワードです。つまり「イエス=ことば=律法の書」はヒゼキヤの時代から宮にあったのに、忘れられてしまったのです。

 ヨハネ8章21節から8章の終わりまではヒゼキヤ末期~マナセ・アモンの時代です。悪王のマナセ・アモンの時代の人々に対して、イエスはこんな風に言っています。

「あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。」(ヨハネ8:43)
「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。」(ヨハネ8::44)

 マナセ王は「悪魔」や「人殺し」と呼ばれるにふさわしい極悪の王でした。それはアモン王にも引き継がれ、善王のヨシヤの時代になっても、人々の信仰は、霊的な状態から言えば改善されませんでした。律法の書が見つかって以降、ヨシヤの時代には宗教改革が行われましたが、霊的に見れば人々の信仰がほとんど改善されなかったことは、エレミヤ書で神が怒っていることから分かります。

 ヨシヤの時代に律法の書が見つかったことを、ヨハネは9章でイエスが盲人の目を見えるようにしたことで表していますが、盲人以外のユダヤ人がイエスに批判的なヨハネ9章は、舞台裏のヨシヤ・エレミヤの時代の雰囲気を実に上手く表現しており、その驚異的な巧妙さには感嘆するばかりです。
(続く)