八百万の神と聖書の神との違い2012年06月13日 10時43分

『焼けなかったロゴス ~舞台裏から観たヨハネの福音書~』(4)
4.八百万の神と聖書の神との違い

 姫路の近くに忠臣蔵で有名な播州赤穂があるので、忠臣蔵が好きな私は昨年の5月にこの地を訪ねました。いくつかの観光スポットがあるのですが、そのうちの一つの大石神社に行って驚きました。祭神の神の多さに驚いたのです。大石神社だから大石内蔵助が祀られているのだろうと思っていましたが、内蔵助だけではありませんでした。大石神社のホームページには次のように書かれています。

「ご祭神は大石内蔵助良雄以下四十七義士命と中折の烈士萱野三平命を主神とし、浅野長直・長友・長矩の三代の城主と、その後の藩主森家の先祖で本能寺の変に散った森蘭丸ら七代の武将を合祀してある」

 今ふと思い付いて、靖国神社のホームページを見てみたら、次のように書いてありました。

「靖国神社には現在、幕末の嘉永6年(1853)以降、明治維新、戊辰の役(戦争)、西南の役(戦争)、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争などの国難に際して、ひたすら「国安かれ」の一念のもと、国を守るために尊い生命を捧げられた246万6千余柱の方々の神霊が、身分や勲功、男女の別なく、すべて祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として斉しくお祀りされています」

 このような神観で聖書を読むと、聖書を理解するのは難しいかもしれません。私の個人的な経験から言えば、神の絶対性の理解度と聖書理解度とは比例しています。神とは人でも成れる存在だと思っていると、万物の創造主である聖書の神のことは、なかなか理解できないと思います。

 聖書の神は初めからおり、万物を創造しました。宇宙だけでなく、そこに住む生物、そして人間の命も神が造りました。生命は偶然に誕生したのではなく、神の何らかの操作により誕生しました。人間には人工的に生命を造り出すことは出来ません。神と人間とは、それほど掛け離れていますから、人が死んでも神になることはできません。
(続く)

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