焼かれなかった小羊2012年06月01日 09時51分

 きょうから新しい読み物を、このブログで始めることにします。タイトルは、『焼けなかったロゴス ~舞台裏から観たヨハネの福音書~』です。

 聖書を読んだことがない方にも、聖書の世界の面白さを味わってもらえるような読み物を目指したいと願っています。そして、この読み物を通じて聖書について学んでいただくことができたなら最高です。難しいかもしれませんが、目指す所はそこですので、何はともあれ、よろしくお願いします。


『焼けなかったロゴス ~舞台裏から観たヨハネの福音書~』(1)

1.焼かれなかった小羊
 「焼かれなかった小羊」の「小羊」とは、イエス・キリストのことです。新約聖書では、イエス・キリストは小羊に例えられています。イエスが十字架に掛かる頃までの旧約聖書の時代、イスラエルの人々は牛や羊を犠牲のいけにえとして、神殿の祭壇に捧げていました。そして新約聖書ではイエス・キリストが小羊として十字架に掛かり、旧約の時代を終焉させたとみなされています。

 旧約の時代に動物をいけにえとして神に捧げた目的は細かく言えばいろいろありますが、大雑把に言うなら、本来なら人間が死んで神に詫びなければならないところを動物を身代わりにした、ということです。これを新約の時代に当てはめるなら、本来なら私自身が十字架に掛からなければならなかったところを、イエス・キリストが身代わりになって十字架に掛かったということです。

 しかし、いけにえの動物と十字架のイエス・キリストとでは、大きく異なることがあります。それは、いけにえの動物は焼かれましたが、十字架のイエス・キリストは焼かれなかったということです。いけにえの儀式は犠牲の動物が焼かれて完了しますが、十字架上のイエスは焼かれていないのに「完了した」と言いました(ヨハネの福音書19章30節)。

 では、イエス・キリストは焼かれなかったのかと言えば、実は「ことば(ロゴス)」としてのイエス・キリストは火中に投げ入れられました。しかし、ロゴスは焼けませんでした。このことは、おいおい書いて行くことにします。

 ヨハネの福音書を舞台裏から観ると、面白いことがたくさんあります。この連載ではそれらについて書いていきますが、ほとんどは従来言われて来なかったことだと思います。この、舞台裏から聖書を観る面白さを、ぜひ皆さんにも味わっていただけたらと思います。
(続く)

ヨハネのメイキングビデオとパンフレット2012年06月08日 09時40分

『焼けなかったロゴス ~舞台裏から観たヨハネの福音書~』(2)
2.ヨハネのメイキングビデオとパンフレット

 ヨハネの福音書は不思議な書き出しで始まります。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネの福音書1章1節)

 この不思議な書き出しは、実はこの福音書は舞台裏も楽しめるようになっていることを教えてくれている重要な案内板です。ヨハネの福音書は、舞台の表側だけから鑑賞しても十分に大きな恵みが得られますが、舞台裏の動きも併せて鑑賞したなら、さらに大きな恵みが得られるようになっています。映画のDVDに例えるなら、本編と併せて、メイキングビデオの特典映像をも観るなら、より深くその映画のことが分かるようになるのと同じと言えるでしょう。

 また、映画館で売っているパンフレットを読むなら、さらにその映画についての情報を得ることができます。この、ヨハネの福音書のパンフレットに当たるのが、「ヨハネの手紙第一」です。この手紙の書き出しは次の通りです。

「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、 ──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──」(ヨハネの手紙第一1章1,2節)

 この手紙の序文には、イエス・キリストが「いのちのことば」であり、「永遠のいのち」であることが、明確に書いてあります。そして、ヨハネの福音書もまたイエス・キリストが「いのちのことば」であり、「永遠のいのち」を持つことを書いています。しかし、それはヨハネの福音書を舞台裏から観なければ分からないようになっています。

 ヨハネの福音書はパンフレットの情報を参考にしながらメイキング映像をも併せて観るなら、本編を7倍楽しく観ることができます。(7という数字は思い付きですので、特に意味はありません ^^)
(続く)

カエルの大合唱2012年06月10日 07時17分


 昨日、教会の前に広がる田んぼに水が張られ、耕運機で田を耕す作業が忙しく行われていました。いよいよ田植えの季節になりました。

 田に水が張られたことで、昨晩はカエルが大合唱をしていました。一昨日の晩までは静かだったのが、いきなりの大合唱なので驚きました。このカエルたちは、一昨日まではどこにいたのだろうかと思いました ^^

 私は「御言葉のお風呂」という例えを使いますが、聖書の御言葉を聞くと、お風呂に入った時のような気持ちの良さを感じます。カエルたちも田に張られた水に浸り、さぞ気持ちが良かったのだろうと思います。そして、もしかしたらカエルたちも天と地、そして命を造った神を賛美しているのかもしれません。

 今朝の礼拝で私たちも、万物の創造主を力一杯、賛美したく思います。

聖書の中の広大な時空2012年06月12日 07時01分

『焼けなかったロゴス ~舞台裏から観たヨハネの福音書~』(3)
3.聖書の中の広大な時空

 神の御子イエス・キリストについての、よくある誤解に、
  × 御子は二千年前の約30年間生きていた
  × 御子は二千年前から永遠の未来までを生きている
があります。しかし、正解は、
  ○ 御子は永遠の過去から永遠の未来までを生きている
です。御子は初めからいる方であり、万物を創造しました。聖書には次のように書かれています。

 「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」(ヨハネの福音書1章3節)
 「御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています」(コロサイ人への手紙1章17節)

 御子イエスは宇宙を創造し、永遠の時間の中を生きています。そして聖書の中には、この途方もなく大きなスケールの時間・空間が広がっています。
 ですから聖書を読む時には、天体望遠鏡や電子顕微鏡を使って宇宙や極微の世界の広大さを覗くのに似た、ワクワク感を楽しむことが出来ます。

 「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」(エペソ人への手紙3章17-19節)

 私は学生時代に『荘子』の内篇が大好きでした。大鵬が九万里の高さに舞い上がり、飛翔する姿をワクワクしながら想像していました。しかし、聖書のスケールの大きさは、それを遥かに上回るものでした。
 そのことを知ったのは、20年後の40代になってからでしたが、聖書の中に広がる広大な時間・空間を私が好んで思い浮かべるのは、私が『荘子』を愛読していたからかもしれません。
(続く)

八百万の神と聖書の神との違い2012年06月13日 10時43分

『焼けなかったロゴス ~舞台裏から観たヨハネの福音書~』(4)
4.八百万の神と聖書の神との違い

 姫路の近くに忠臣蔵で有名な播州赤穂があるので、忠臣蔵が好きな私は昨年の5月にこの地を訪ねました。いくつかの観光スポットがあるのですが、そのうちの一つの大石神社に行って驚きました。祭神の神の多さに驚いたのです。大石神社だから大石内蔵助が祀られているのだろうと思っていましたが、内蔵助だけではありませんでした。大石神社のホームページには次のように書かれています。

「ご祭神は大石内蔵助良雄以下四十七義士命と中折の烈士萱野三平命を主神とし、浅野長直・長友・長矩の三代の城主と、その後の藩主森家の先祖で本能寺の変に散った森蘭丸ら七代の武将を合祀してある」

 今ふと思い付いて、靖国神社のホームページを見てみたら、次のように書いてありました。

「靖国神社には現在、幕末の嘉永6年(1853)以降、明治維新、戊辰の役(戦争)、西南の役(戦争)、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争などの国難に際して、ひたすら「国安かれ」の一念のもと、国を守るために尊い生命を捧げられた246万6千余柱の方々の神霊が、身分や勲功、男女の別なく、すべて祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として斉しくお祀りされています」

 このような神観で聖書を読むと、聖書を理解するのは難しいかもしれません。私の個人的な経験から言えば、神の絶対性の理解度と聖書理解度とは比例しています。神とは人でも成れる存在だと思っていると、万物の創造主である聖書の神のことは、なかなか理解できないと思います。

 聖書の神は初めからおり、万物を創造しました。宇宙だけでなく、そこに住む生物、そして人間の命も神が造りました。生命は偶然に誕生したのではなく、神の何らかの操作により誕生しました。人間には人工的に生命を造り出すことは出来ません。神と人間とは、それほど掛け離れていますから、人が死んでも神になることはできません。
(続く)

5.神に背き続けて来た人間2012年06月14日 08時47分

「焼けなかったロゴス ~舞台裏から観たヨハネの福音書」5

 前回まで、聖書の神が万物の創造主であることを、ややしつこく書いてきました。日本では生命の起源を神に求めることは非科学的と考える人が多いと思いますが、生命の起源は未だに科学的に解明されていません。それでも神が創造主でないことだけは確かだと決め付けるとしたら、それもまた信仰の一種だと言えます。

 さて、もし人間が偶然に生まれた存在であるなら、人は神を信じなくても構いません。しかし、もし人間が創造主によって造られた存在であるなら、創造主である神を信じないことは、神に背くことになります。そして聖書に書いてあることの大半は、人間がいかに神に背き続けて来たかということです。立派な信仰を持っていたモーセやダビデも失敗して神から心が離れた瞬間があったことが旧約聖書には記されています。モーセやダビデでさえそうなのですから、一般の民衆はいとも簡単に神から心が離れました。

 聖書というと聖人君子のことが書かれているというイメージがあるかもしれませんが、聖書、特に旧約聖書には神に背き続けて泥沼にはまっている人間のことが繰り返し描かれています。そして神はこの人間を不信仰の泥沼から救い出すために、御子イエス・キリストを、この世に遣わしました。

 ヨハネの福音書の抜群に面白いところは、この旧約聖書の時代から新約聖書の時代への流れが本文の背後に隠されており、舞台裏から観るとそれが分かるようになっていることです。次回からは、いよいよ、このヨハネの福音書の舞台裏に迫って行くことにします。
(続く)

6.旧約の舞台移動に同期したイエスの旅路2012年06月15日 06時30分


「焼けなかったロゴス ~舞台裏から観たヨハネの福音書」6

 ヨハネの福音書の記者ヨハネは、御子イエスが「ことば」として旧約時代の初めからいたことを示すために、旧約聖書の時代を時間順に福音書本文の背後に巧妙に仕込みました。そして、そのことをチラチラと読者に見せています。その現れの一つが、イエスの旅の経路です。

 ヨハネの福音書のイエスの旅は、東西と南北を行ったり来たりしています。東西の動きはヨルダン川の東側と西側とを何度か行き来し、南北の動きは南のユダヤと北方のサマリヤ・ガリラヤ地方との間を何度か行き来しています。特に南北に関しては4章から7章に掛けて南→北→南→北→南と移動しているので、聖書学者の中には、これはヨハネの福音書の写本のページが誤って入れ替わってしまったためで、オリジナルの福音書は南→北→南の移動だけだったと考える人たちもいるほどです。

 実はイエスのこの複雑な動きは、旧約聖書の舞台の移動と同期しています。イエスが北に移動した時には旧約聖書の北王国のことが、南に移動した時には南王国のことが福音書の背後に描かれています(北王国・南王国はソロモンの王国が南北に分裂して出来た王国です)。

 また、福音書には1章と10章にイエスがヨルダンの向こう岸(東岸)にいたことが記されていますが、背後の舞台はヨルダンの東にあるユーフラテス川沿いのウルとバビロンです。すなわち1章の背後にはウルにいたアブラハムが、10章の背後にはバビロン捕囚の出来事が描かれています。

 上図は、ヨハネの福音書のイエスの旅路と旧約聖書の舞台移動が同期している様子を示しています。次回以降、もう少し詳しく説明して行くことにします。(続く)

7.涙を流したイエス2012年06月16日 08時48分

「焼けなかったロゴス ~舞台裏から観たヨハネの福音書」7

 このシリーズは、聖書の初心者にも分かっていただける読み物を目指しています。前回明らかにしたヨハネの福音書の舞台裏について詳しく説明していく場合、アブラハムから説明したほうが時代順としては良いのでしょうが、それだと退屈かもしれませんので、クライマックス的なシーンから説明を始めようかと思います。

 イエス・キリストの地上生涯で最も重要な出来事は十字架と復活です。ですからヨハネの福音書のクライマックスはもちろん、イエスが十字架に掛かって死ぬ19章の場面であり、死んだイエスが復活した20章の場面です。しかし、イエス・キリストの十字架には裏も表もありませんから、舞台の裏側に注目する我々は、十字架以前の場面を見て行くことにします。

 ヨハネの福音書には十字架以前でも、読者の心をしっかりと高揚させる場面があります。その一つが11章です。イエスは死んだラザロのために涙を流し、ラザロを生き返らせました。11章35節に「イエスは涙を流された」とあります。そして、その前の33節にはイエスは「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて」とあります。イエスが心の動揺を感じるとは尋常ではありません。なぜなら、イエスは大暴風で大波をかぶって沈みそうな舟の中でも平然としている方だからです。そんな冷静沈着なイエスが心の動揺を感じるとは、このヨハネ11章の裏には並大抵ではない何かがあるなと、私は以前から薄々感じていました。そして果たして裏の出来事が存在したのでした。

 イエスは死んだラザロのためだけでなく、旧約時代にバビロン王の軍の攻撃により廃墟と化してしまったエルサレムのために、涙を流したのでした。前回、10章でイエスがヨルダンの東岸に渡ったこと(10:40)の裏側には、バビロン捕囚の出来事があると書きました。この、エルサレムの民がバビロンに捕囚として引かれて行った時、エルサレムは炎上して滅亡してしまいました。しかしその約70年後、民はエルサレムに帰還することを許されました。そして、神殿と城壁を再建しました。

 ヨハネの福音書11章でイエスが再びヨルダン川の西側に戻った時、イエスは舞台裏の廃墟となったエルサレムを見て涙を流しました。そして、ラザロを生き返らせた場面の裏側には、バビロン捕囚から帰還したエルサレムの民が、神殿と城壁を再建した出来事が描かれています。

 前々回、人間が神に背き続けたことを書きました。神が紀元前6世紀にエルサレムを滅亡させることにしたのは、滅亡を予告し、再三に亘って警告したにも関わらず耳を貸さなかった、人々の背信ゆえです。しかし、憐み深い神はエルサレムの民を滅ぼし尽くさずにバビロンからの帰還を許し、廃墟となったエルサレムの再建を励ましました。イエス・キリストはそれらエルサレム滅亡の警告の場にも、再建の励ましの場にも、「ことば(ロゴス)」として存在していたのでした。
(続く)

昨晩の「ららら♪クラシック」良かった~ ^^2012年06月18日 09時42分

 8年前から応援している加羽沢美濃さんが司会をしているNHK-Eテレの昨晩の「ららら♪クラシック」は、すんごい良かったな~と、一夜明けても、まだ余韻に浸っています。

 小澤征爾さんと水戸室内管弦楽団の皆さんが、本当に楽しそうに演奏している姿が、とても印象的でした。

 その演奏している姿に引き込まれていくうちに、私が持っている聖書も、弦楽器のような気がしてきました ^^

 演奏家が弦楽器の弦を弓でこすると美しい音が出るように、聖書を弓でこすると聴くものが引き込まれるメッセージが溢れ出てくる、そんな説教ができるようになると良いなあ、と思ったことでした。

 それには、一流の音楽家が努力しているのと同じくらいに、私も努力しなければ…

8.滅亡に向かうエルサレム2012年06月20日 09時05分

「焼けなかったロゴス ~舞台裏から観たヨハネの福音書」8

 前回は、ヨハネの福音書10章の終わりから11章に掛けての舞台裏の旧約時代は、バビロンに捕囚として引かれて行った民がエルサレムに帰還して神殿と城壁を再建した時代であることを述べました。ヨハネはラザロの復活をエルサレムの再建と重ねているのです。

 今回は、それより少し前のヨハネ10章の前半の舞台裏にある、滅亡に向かっている時代のエルサレムについて述べます。イエスは言いました。

「羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。」(ヨハネの福音書10章1節)

 「羊の囲い」とは城壁に囲まれたエルサレム、「盗人で強盗」とはそこに攻め込んだ外国の略奪隊のことです。旧約聖書の列王記第二には、次のように記されています。

「主は、カルデヤ人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻めた。」(列王記第二24章2節)

 「エホヤキムを攻めた」とは、エホヤキム王がいるエルサレムを攻めたということです。このようにヨハネ10章の舞台裏では、エルサレムは大変なことになっていました。

 またイエスは、ヨハネ10章11節で「わたしは、良い牧者です」と言った後の12節、13節で次のように言いました。

「牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。」(ヨハネの福音書10章12,13節)

 この「雇い人」とは、旧約聖書のエレミヤ書の所々に登場する、偽の預言をする預言者のことでしょう。このような偽の預言者について神は、エレミヤを通して例えば次のように言っています。

「わたしはこのような預言者たちを遣わさなかったのに、彼らは走り続け、わたしは彼らに語らなかったのに、彼らは預言している。」(エレミヤ書23章21節)

 このような偽の預言者たちは、雇い主に対して「主はあなたがたに平安があると告げられた」(エレミヤ23章17節)というような耳触りの良い言葉しか語りませんでした。一方、エレミヤのような真の預言者は主の怒りを人々に伝えたので、それを快く思わない人々に迫害されました。福音書ではユダヤ人たちがイエスを迫害していますが、ヨハネは旧約時代にユダヤ人たちがエレミヤのような真の預言者を迫害したこととも重ねているのです。
(続く)