『日輪の遺産』2011年09月05日 13時37分

 8月27日に姫路で、29日に静岡で映画『日輪の遺産』を見ました。

 以来、モヤモヤした気分がずっと続いています。9月2日に批判的な記事をここにアップしましたが、批判ばかりが目立って私の困惑が伝わらないと思いましたし、公開後一週間以内にあまり批判ばかりの記事をアップすることに後ろめたさも感じましたので、その日のうちに取り下げました。

 これから書くことは、9月2日に取り下げたものとは異なるものですが、やはり批判的な内容なので、本当なら公開終了後に書いたほうが良いことかもしれません。しかしモヤモヤがずっと続いているので、書くことにします。

 『日輪の遺産』は私にとっては非常に困惑させられる映画です。
 それは、霊の描き方に大きな嘘があるからです。

 同じ嘘でも、例えば『夕凪の街 桜の国』で死ぬ間際の麻生久美子さんに出た紫斑が首にはあるのに顔には全く無い、というのはOKな嘘です。きれいなシーンとして撮りたいという製作者の意図はよく理解できます。

 しかし、『日輪の遺産』で、恐ろしいはずの【鬼】の霊が可愛いままということには、私は非常に困惑します。

 霊は実在します。しかも霊の種類は一つではありません。悪霊もいれば神の霊もいます。このように、いろいろな霊をいろいろに解釈するので、多種多様な宗派の宗教が存在します。しかし、霊の世界はそんなに簡単に理解できるものではないので、どの宗派の解釈も全部間違っているだろうと私は思います。

 私の信じるキリスト教も、霊のことを100%正しく理解しているわけではありません。しかし、他宗教に比べれば一番正解に近いであろうと私は信じています。他宗教の人は、自分の宗派が一番正解に近いと思っているでしょう。

 霊を感じることは世俗的な生活の中では非常に難しいです。ですから、アメリカなどのキリスト教国で家族がクリスチャンだからという理由で自分もクリスチャンになった人の大半は霊を感じたことがない、形式的なクリスチャンです。

 また、霊を感じたことがあるクリスチャンでも、霊性を保つのは大変で、毎日の祈りと週一回の教会の礼拝出席は欠かせません。ただし、これは信徒レベルの話であり、牧師であれば、起床後から朝食をはさんで昼食前までの毎日数時間は祈りと聖書読みと霊想の時間を持たなければ、教会で神のメッセージを語るための霊性を保つことはできません。私もそのような生活をしています。帰省などでこの時間を十分に取れない時は、霊性が大きくダウンすることを、はっきりと自覚します。

 3年前に仕事を辞め、いろいろな犠牲を払って霊性を高める修行をしている私が感じる【鬼】の霊は、非常に恐ろしいものです。これは決して美化できるものではありません。『日輪の遺産』では、いくらフィクションであるとは言え、【鬼】の霊が可愛いままであることに、私は非常に大きな困惑を覚えます。

 霊は実在します。実在するけれど、感じるのが難しい。その霊を感じるため、人生を掛けて霊性を高めるための修行をしている私としては、『日輪の遺産』の【鬼】の霊には、どうしても納得できません。

天国で安らいでほしい霊2011年09月06日 21時00分

 前回の日記で『日輪の遺産』の【鬼】の霊について触れたので、霊について少し整理して考えてみます。ここでは人間の霊だけを考えます。

1.霊の存在を信じない立場

 生命が偶然に誕生し、偶然による進化で人類が誕生したことを信じるなら、必然的にこの立場を取ることになります。進化の過程で霊が偶然に発生することは考えられないからです。霊が偶然により発生すると考える人がいるとしたら、その人はそのメカニズムを説明する必要がありますが、そういう説明を私は聞いたことがありません。何かあるでしょうか?

 霊の存在を信じない映画製作者が映画を面白くするために霊を登場させることは、よくあることです。その場合、その映画は完全に作り話だということになります。作り話を楽しむ映画でしたら、それはそれで結構なことです。しかし、戦争を真面目に考える映画には不向きだと思います。映画製作者が自分では信じていない霊を戦争映画に持ち込むことには、私は疑問を感じます。

2.霊の存在を信じる立場

 一方、霊の存在を信じるとしたら、その霊がどのようにして生まれたかを、ちゃんと真面目に考えなければなりません。先ほども述べたように、進化の過程で霊が偶然に発生することは考えられません。

 霊の存在を唯一合理的に説明できるのは、生命の創造主(神)が人に霊を吹き込んだということです。神は霊ですから、人に霊を吹き込むことができます。この方法以外に霊の存在を説明することができるでしょうか?霊は偶然には発生しませんから、創造主をどうしても考える必要があります。

 さて、ここからが大事です。

 霊は創造主である神が造ったものですから、創造主の存在を認めた霊、つまり自分を造ったのは神だということを認めた霊だけが天国の神の下で安らぐことが許されます。一方、創造主の存在を認めず、創造主の大きな力(他力)に頼らず、自力に頼る霊は天国で安らぐことが許されません。財宝が置かれた場所に居続けて、自ら【鬼】となって自力で財宝を守ることを選んだ霊は、決して安らぐことが許されず、【鬼】として永遠に存在するしかないでしょう。永遠に安らぐことが許されない霊が、もしこの世に滞留しているとしたら、人間にとっては非常に恐ろしい存在です。

 この【鬼】たちが許されて天国で安らぐことができるよう、私は創造主である神様にお祈りしたく思います。

ヘッセ『車輪の下』2011年09月13日 19時16分

 映画『日輪の遺産』でヘッセの『車輪の下』の文庫本が登場しました。野口先生が久枝に貸し、それをまたスーちゃんに又貸しした本です。どんな小説なのか、未読で気になったので、新潮文庫を買って読んでみました。

 解説によれば、『車輪の下』はヘッセの自伝的な小説だそうです。主人公のハンスは将来を嘱望された有能な少年で、優秀な成績で神学校に入学しましたが、一年たたないうちに勉学意欲を完全に失い、退学同然の休学扱いとなって故郷に戻ることになりました。ヘッセもほとんど同様だったそうです。

 年譜によると、ヘッセが生まれたのが1877年、神学校に入学したのが1891年、そして『車輪の下』が発表されたのが1906年ですね。この19世紀後半から20世紀の初めに掛けては、科学・技術が猛烈な勢いで進歩していた時期です。ノーベル、レントゲン、マクスウェル、マッハ、キュリー、ダーウィンらが活躍したのが19世紀の後半、そして20世紀に入って、プランク、アインシュタインらが活躍を始めました。

 そのような時代にあって聖書も、まるで理系の研究対象であるかのように解剖され、バラバラに解体されました。聖書は神の霊が息づく霊的な書物ですから、死体の臓器や機械部品のようになってしまった聖書の断片を詳しく調べても、神の霊のことが分かるはずもありません。詩人になりたかったというヘッセが神学校で死体や機械のパーツの勉強をしても意欲が持てなかったのは当然のことでしょう。

 『車輪の下』ではハンスがマルコ6章でイエスを感じる場面が出て来ますが、そこまでが限界だったようです。福音書全体から、生けるイエスの霊を感じることができるようになると、こんなに素晴らしい恵みはないのですが、バラバラに分解されたパーツでは、無理ですね。聖書を学ぶには最悪の時代にヘッセが神学校に入学したのは、気の毒なことでした。

 それにしても野口先生は、一体どうして久枝にこの本を貸したのでしょうね…?

細川ガラシャ2011年09月19日 09時51分


 大河ドラマの『江』を見ていて、細川ガラシャの信仰に興味を持ったので、ネットで三浦綾子『細川ガラシャ夫人』の一冊1円 ^^ の古書を買いました。一気に読む時間はありませんが、できるだけ早く読み終えたく思っています。

 小説では、他に永井路子も細川ガラシャについて書いているようです。しかし、信仰に興味があるので、三浦綾子にしました。さきほど届いた本をパラパラとめくってみると、さすが三浦綾子、下巻ではかなり信仰のことに踏み込んでいるようです。

 それで、三浦綾子を読み終えたら、永井路子も読みたいなと、いま急に思い始めています。永井路子の『朱なる十字架』は、細川ガラシャの信仰をどのように描いているのか、急に気になってきました ^^;

 というわけで、永井路子の『朱なる十字架』も、さっそくクリック! ^^

良妻・宮崎あおいに二つの顔?2011年09月20日 08時44分


 このような見出しで、『ツレがうつになりまして。』と『神様のカルテ』の二つを評した記事が朝日新聞のサイトに出ていました。

 『神様のカルテ』は静岡で家族と観ましたが、いい映画だと思いました。

 当初、静岡で家族で観る映画は『日輪の遺産』にしようと思っていましたが、帰省する前の公開初日に家族は既に『日輪の遺産』を観てくれていたので ^^、『神様のカルテ』を観ました。

 この朝日新聞の記事は『ツレうつ』を絶賛していますね。私はまだ観ていないので、公開が楽しみです。

(朝日新聞の記事)
http://www.asahi.com/showbiz/column/animagedon/TKY201109180080.html

ヤモリ2011年09月21日 22時00分


 ここ何日か、夜になると台所の窓のすりガラスにヤモリがやって来て、へばり付きます。ヤモリって夜行性なんですね。

 最初はギョッとしましたが、毎晩のように現れると、何だか愛情が湧いてきて、「カワイイ奴だ」、と思うようになりました ^^;
 『ツレうつ』の二人がイグアナをペットにしている気持ちが少し分かる気がします ^^

 前に所属していた大学の工学部の同じ学科に、ヤモリの足が壁に吸い付く仕組みを工学的に応用する研究をしている先生がいました。ヤモリの足には無数の繊毛が生えていて、その一本一本と壁とのファンデルワールス力で吸い付いているのだそうで、動物ってスゴイなあと感心したことでした。

イエスの派手なパフォーマンス2011年09月23日 10時27分

 教会の祈祷会の説教メモを載せるのを、しばらくサボってしまいました。久々で載せます。

 昨晩はゼカリヤ書を開きました。来週はマラキ書を開いて9月で小預言書の学びはおしまいとして、10月からは「使徒の働き」から、パウロの生涯を学ぶことにしています ^^

 イエスは何故、エルサレム入京時に派手なパフォーマンスを行ったのかの今回の考察は、我ながら気に入っています。傲慢ですね ^^;

 メモの補足説明を予めしておきます。

 イエス逮捕後の裁判で判事役のローマ総督は、イエスは死刑に値することは何もしていないことを知っていました。しかし、民衆が死刑を激烈に主張したため、暴動を恐れた総督は保身のためにイエスを死刑にすることにしました。暴動が起きたら統治能力がないとみなされ、総督はローマ皇帝に処分されてしまうからです。
 この民衆のエネルギーを引き出すためにイエスは、自分では好まない派手なパフォーマンスを敢えて行ったと私は考えます。イエスは祭司長ら宗教指導者に扇動された民衆のエネルギーを利用して十字架に付いたのでした。
 イエスは私たちを罪の奴隷状態から救い出すために、強い覚悟を持ってエルサレムに入京したのでした。

<9月22日祈祷会メモ>

『強い覚悟で十字架に向かった主』
【ゼカリヤ9:9/ヨハネ12:12-15】

 ゼカリヤはハガイと同じ時代の捕囚帰還後にエルサレムの神殿再建を励ました。ハガイに比べゼカリヤ書にはメシヤに関する預言が多く記されている。ゼカリヤ9:9はイエス・キリストのエルサレム入京により成就した。イエスがろばの子に乗って入京した場面はマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの全てに記されている。

 預言が成就するためとは言え、主は何故ろばの子に乗って入京したのだろうか。このような派手なパフォーマンスを、イエスは本来、好まないはずである。

 そのヒントはヨハネ7章にある。イエスはこの時「内密に」エルサレムに入った。まだ十字架の時ではなかったからだ。このことから、十字架には民衆の激烈なエネルギーが必要だったことが分かる。民衆はイエスを「十字架に付けろ」と激しく叫んだ。この民衆の苛烈さはイエス入京時の熱烈な歓迎の反動である。民衆の期待が極端から極端へ大きく振れることは日本の国政選挙の結果を見てもわかる。イエスは強い覚悟でろばの子に乗り、エルサレムに入京したのだ。