きょうは「最後の晩餐」の日2011年04月21日 09時15分

 今年のイースターは4月24日(日)です。
 イースターは、十字架で死んだイエス・キリストが復活したことを祝う日です。イースターの前の金曜日が十字架の日、その前日の木曜日が「最後の晩餐」の日です。
 今月の京都西教会の木曜の晩の祈祷会では旧約聖書のハガイ書の学びをしていますが、今夜はハガイ書を通して最後の晩餐について考えることにしました。
 説教を作っていて、私自身も本当に良い学びができたと思い、神様に感謝しています。
 このブログを読んでくださっている皆さんとも、私が今回新たに学んだことを、ご一緒にお分かちしたく思います。

2011年4月21日(木)祈祷会説教

「ハガイ書で深まる最後の晩餐の学び」

聖書箇所:旧約聖書・ハガイ書1:12-2:9

 受難週の木曜日は最後の晩餐の日です。今夜は最後の晩餐のことを思いつつ、ハガイ書の学びを続けていきたく思います。
 最後の晩餐の場面を意識しながら、ハガイ書を読むと、これは今回私も初めて気付いたことですが、ハガイ書で神がハガイを通してイスラエルの民に語る場面は、イエス・キリストが最後の晩餐で弟子たちに語る場面と、非常に雰囲気が似ているように感じます。
 イエス・キリストは「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)とおっしゃいましたから、ハガイ書の父なる神と最後の晩餐の御子イエスが似ているのは、当たり前のことかもしれません。父なる神はユダヤの民に対して、御子イエスは弟子たちに大きな愛を示したことが私たちには伝わってきます。しかし、似ているとは言ってもやはり両者は違います。父は父の愛を示し、イエスはイエスの愛を示しました。この違いから私たちはイエスがこの世に来たことが、どんなに素晴らしい出来事であったか、ということが分かります。

 このことを分かち合うために、まずは父なる神の愛が示されたハガイ書の今日の箇所を見ていきましょう。
 前回は、「【主】の宮を建てる時はまだ来ない」と言って、神殿の再建を中断したまま再開しようとしない民に対して、神が、「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。あなたがたの現状をよく考えよ」(1:4)と言い、「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現そう」(1:8)と言って民を叱咤激励したことを一緒に見ました。

 きょうの箇所は、その続きです。父なる神は、ハガイを通して、さらに、このように言いました。13節「わたしは、あなたがたとともにいる」
 神が共にいてくださる。これ以上、大きな励ましがあるでしょうか。私たちの教団の名前であるインマヌエルの意味も、「神は私たちとともにおられる」です。教団の名称にするほどですから、本当に大きな励ましであり、素晴らしい恵みです。
 この言葉により、民は大きな力を得ます。14節「【主】は、ユダの総督ゼルバベルの心と、大祭司ヨシュアの心と、民のすべての残りの者の心とを奮い立たせたので、彼らは彼らの神、万軍の【主】の宮に行って、仕事に取りかかった。」
 民は奮い立ちました。そうして、中断していた神殿の再建が再び始められました。それは第六の月のことでした。
 さて、これで奮い立った民が、あとは神が激励しなくても頑張り通したかというと、どうもそうではなかったようなんですね。
 一ヵ月後の第七の月に、神は再び民を励まします。2章4節、
「しかし、ゼルバベルよ、今、強くあれ。エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ」(2:4)

「強くあれ。仕事に取りかかれ」これも、力強い励ましの言葉ですね。そしてもう一度、
「わたしがあなたがたとともにいる」と、神はおっしゃってくださっています。さらに、5節では、「わたしの霊があなたがたの間で働いている」とおっしゃっています。

 これが父なる神がユダヤの神に示した愛です。「わたしの霊があなたがたの間で働いている」、ここから、非常に大きなことが分かります。父なる神と御子イエスとの大きな違いが分かります。父の愛は民族の単位、国の単位のものなんですね。一方、イエス・キリストの愛は一人一人に対するものでした。
 父の愛は国単位、民族単位で注がれたものです。7節、
「わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。」
 そして9節、
「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。わたしはまた、この所に平和を与える。」

 何と素晴らしい約束ではないでしょうか。ユダヤの民も、大いに励まされたはすです。しかし、結局、一時的には励まされても、すぐまたダメになってしまうのですね。このハガイ書の続きは、また来週見ることにしたく思いますが、旧約聖書とは、結局はその繰り返しなんですね。神の言葉により、一時は良くなるものの、すぐにダメになってしまう。民という単位で考えると、民とは楽な方に流されやすいと言えるのでしょう。

 すぐダメになってしまう民を救うため、最後の手段として父が送ったのが一人子のイエス・キリストでした。
 では、きょうの残りの時間は、イエス・キリストと弟子たちの最後の晩餐の時について分かち合って行きたく思います。きょう私は始めに、ハガイ書と最後の晩餐は似ていると感じると話しました。どこが似ているかというと、ふがいないユダヤの民を父なる神が諭すのと、なかなか悟らない情けない弟子たちをイエスが教えるのが似ています。どれだけ情けないかを(もちろんそういう私も情けないのですが)、ルカの福音書の最後の晩餐の場面で見てみましょう。ルカの福音書の22章です。
 まず19節と20節をお読みします。
「それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」
「食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」

 パンとぶどう酒の聖餐の場面です。この聖なる食事が行われた場で、誰が一番偉いかという議論が起こったのです。24節、
「また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。」
 これがイエスとずっと一緒に付き従ってきた弟子たちの姿でした。イエスはそんな弟子たちに言いました。26節と27節、
「あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。」

 このように、イエスは、へりくだることの大切さを弟子たちに教えました。ヨハネの福音書には、イエスが弟子たちの足を洗ったことが記されています。そこもご一緒に見てみましょう。ヨハネの福音書の13章です。13章1節、
「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」
4節と5節、
「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」

 イエスは弟子たちよりも身を低くして、弟子たちの足を洗いました。父なる神の愛は上からの愛であり、御子イエス・キリストの愛は下からの愛とも言えるのではないでしょうか。
 ヨハネの福音書の最後の晩餐の場面はこのように、13章の、イエスが弟子の足を洗う場面から始まり、17章の祈りの場面まで、5章に渡って綴(つづ)られています。ページ数で言えば10ページ半であり、実にこの福音書の5分の1が、最後の晩餐の場面です。マタイの福音書が1ページちょっと、マルコが1ページ弱、ルカが約2ページなのと比べると、10ページ半という量がいかに多いかということが、よく分かると思います。

 日曜日の礼拝でも言いましたが、ヨハネの福音書、ヨハネの手紙、ヨハネの黙示録のヨハネ文書は新約聖書の中では最も新しいもの、最後に書かれたものです。西暦で言うと、ほかの福音書やパウロの手紙などは、だいたい、紀元50年から70年までの間に書かれたものですが、ヨハネ文書は紀元90年前後から100年までの間に書かれたと考えられています。ヨハネの手紙については定かではありませんが、少なくとも福音書と黙示録が1世紀の終わり頃に書かれたのは、確実だと思います。ですから、ほかの新約聖書の文書が書かれてから約20年の間隔があって、ヨハネの福音書と黙示録が書かれました。ヨハネの福音書と黙示録は新約聖書を通じての神様から私たちへの最後のメッセージです。
 ヨハネの福音書がいったん閉じる20章31節には、この書が書かれた目的が書いてあります。
「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」

 ヨハネの福音書は、私たち読者がイエス・キリストを信じて永遠の命を得るために書かれたものです。イエスの生涯を時間順に正確に書き記したものではありません。神様は私たちにこの福音書を通じて語り掛けています。
 ですから、ヨハネの福音書全体の5分の1を占める最後の晩餐の場面も、イエス・キリストは弟子たちに対してというよりは、むしろ私たちに向かって語り掛けていると考えるべきでしょう。

 イエスはご自身が身を低くして弟子たちの足を洗うことで、私たちは人に仕える者でなければならないことを教えてくださいました。自分はあの人より偉いからあの人には仕えないなどと考えず、すべての人に仕えなければならないことを教えてくださいました。
 そして、新しい戒めとして、「互いに愛し合いなさい」とおっしゃいました。
 また、ぶどうの木のたとえを使って、私たちがイエス・キリストにとどまっていることの大切さを教えてくださいました。イエス・キリストはこのようにおっしゃいました。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)

「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」とイエスさまはおっしゃいました。この言葉を、ハガイ書の今日の箇所と比べてみると、旧約と新約の違いが、非常に良く分かると思います。
 神はハガイを通じておっしゃいました。
「わたしは、あなたがたとともにいる。わたしの霊があなたがたの間で働いている。」旧約では、神様はイスラエルの民族とともにいてくださいました。一つの民族と一緒にいてくださいました。
 ところが、これがうまくいかなかったんですね。人間というのは、それほどまでに罪深く、神様に反逆する性質を持っています。そんな私たちを神様は見捨てず、今度は一人一人に聖霊を送ってくださいました。最後の晩餐の席でイエス・キリストはおっしゃいました。

「わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」(16:7)

 こうして、イエス・キリストは私たち一人一人に助け主である聖霊を送ってくださいました。助け主について、イエス・キリストはこのようにもおっしゃいました。

「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」(14:26,27)

 イエスさまが私たちに与えてくださる平安は、世が与えるのとは違う、とイエスさまはおっしゃいました。これも、ハガイ書との関係で考えると、非常に理解が深まると思います。
 「世」というのは、日曜日の礼拝の説教でも言いましたが、英語では「world」であり、ギリシャ語では「κοσμοs(コスモス)」です。つまり、「世界」です。この世は悪魔が支配している、闇の世界です。ハガイ書のような旧約聖書の世界では、神が民族単位や国単位で一くくりにして共にいてくださるわけですが、どうしてもこの悪魔の世界と混じり合ってグチャグチャになってしまっているのではないでしょうか。その民族のいる空間が、純粋に神様だけで満たされている、というようには、なかなかならない、と思います。
 しかし、新約の時代の私たちは違います。私たちの体は、この世という闇の世界に身を置いているとしても、私たちの体の中心である心の奥底には聖霊がいてくださいます。光であるイエス・キリストがいてくださるのです。
 このことは、旧約と新約の時代の非常に大きな違いとして、しっかり理解しておく必要があると思います。
 ですから、神様と私たちの関係というのは、非常に個人的な関係なんですね。私たちは人々に伝道する時でも、このことを上手に伝えていく必要があると、今回、私はこの説教を作っていて、思わされたことであります。日本の多くの人々がイメージしている神様というのは、地域を守ってくれるとか、先祖代々の家を守ってくれるとか、共同体を守ってくださる神というイメージが非常に強いのではないかと思います。それは旧約の神観と良く似ています。でも、これは上手くいかないことは、旧約聖書で実証済みです。

 一方、イエス・キリストを信じる私たちと神との関係は、非常に個人的なものです。十字架に掛かって死に、復活して天に上ったイエス・キリストが一人一人に聖霊なる神を送ってくださり、私たち一人一人の内には聖霊が住んでいるのだということを、しっかりと認識しておきたく思います。
 最後の晩餐でイエス・キリストは、そのことを私たちに教えてくださいました。