兄弟愛を感じる教会奉仕2011年01月27日 09時14分

 神学院の木曜朝の食卓でのショート・ディボーション(5分間)の順番がまた回ってきました。3年生としては、これが最後であり、4年生になったら神学院を離れてインターン実習の地に向かうことと思いますので、これが最後になる可能性が大きいと思っています。神学院での3年間の学びの締めくくりとして、ふさわしいものにしたいと思って原稿を作りました。読んでみていただければ感謝です。よろしくお願いいたします。

「兄弟愛を感じる教会奉仕」

聖書箇所:ローマ人への手紙12章10,11節
「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」

 皆さんは、俵万智の『サラダ記念日』という歌集をご存知でしょうか。1987年に発行され、短歌の本としては空前の280万部の大ベストセラーを記録した歌集です。その『サラダ記念日』の中に次のような短歌があります。

 「寒いね」と話しかければ 「寒いね」と答える人のいる あたたかさ

 作者はもしかしたらこの歌を恋愛の歌として詠んだかもしれません。しかし、この歌を味わう私たちは必ずしも恋愛の歌としてとらえる必要はないと思います。

 「寒いね」と話しかければ 「寒いね」と答える人のいる あたたかさ

 私は最近、船橋教会の夜の路傍伝道で、この短歌と同じような体験をしています。寒い中で伝道する私たちは、傍から見ると、もしかしたら、寒中水泳や武道の寒稽古などのような苦行を行っているようにも見えるかもしれません。しかし、路傍伝道を行っている私たちは不思議な連帯感でつながっており、そこに暖かいものを感じています。路傍伝道が終わって教会に戻り、暖かい飲み物を飲みながら、「きょうは寒かったですね~」などと語り合う時、とても暖かい気持ちになります。そこにイエス・キリストがいらっしゃり、私たちをねぎらってくださっていることを感じます。

 このことから私は次のことを考えました。

 奉仕が信仰的なものであるか、苦行的なものであるかの差は紙一重である。その紙一重の差は、奉仕しているお互いの中に兄弟愛があるかないかで決まるのではないか、ということです。きょうの聖書箇所で言えば、兄弟愛がなければ、勤勉な奉仕をしても、律法主義的な苦行になってしまう、ということです。そこに愛があり、イエス・キリストの臨在を感ずればこそ、霊に燃やされて、主に仕えることができるのではないでしょうか。信仰と苦行の分岐点における差は紙一重であっても、その先は大きく異なってきます。

 このように、教会における奉仕では、そこにイエス・キリストを感じるかどうかは、決定的に重要なことです。

 ここで、ちょっと視点を変えて、冬のバードウォッチングの会のことを考えてみます。私は教会に通うようになる前、日曜日はよくこのバードウォッチングの会に参加していました。この会の第一の目的は鳥を見ることです。いくら参加者同士の交流ができても、もし鳥をぜんぜん見ることができなかったなら、いくら「寒いですね」とお互いに言い合っても、それはただの苦行です。そこにイエス・キリストがいないからです。

 しかし、冬の路傍伝道では、説教に誰一人立ち止まってくれなくても、チラシをほとんど受け取ってもらえなかったとしても、「寒いですね」と言い合うと、心と体が暖まります。そこに兄弟愛があり、イエス・キリストがいらっしゃるからです。

 私たちは何年生であっても、やがてこの神学院を卒業し、教会でイエス・キリストを宣べ伝える働きにつきます。その時、私たちは、聖書の中のイエス・キリストだけではなく、今も生きておられ、私たちと共にいてくださるイエス・キリストの臨在をしっかりと伝えていかなければなりません。いまだイエス・キリストの恵みを知らない方々に、イエス・キリストの臨在を伝えるのは本当に難しいことだと思います。しかし、きょうご紹介した短歌、

 「寒いね」と話しかければ 「寒いね」と答える人のいる あたたかさ

が、とても重要なヒントになると思います。教会の中に存在する兄弟愛がイエス・キリストの臨在に気付かせてくれるのです。

 私たちはこれから牧会するに当たって、教会の中に兄弟愛がどれくらいあるだろうかということに、絶えず気を配っていく必要があると思います。

 初めて教会に来て、イエス・キリストの恵みをまだ知らない方でも、不思議なあたたかさを感じ、すぐまた来たくなる教会、そうして、あまり時をおかずにイエス・キリストの臨在に気付くことができる、そんな教会を聖霊に教えを請いながら目指していけたら、と思います。

コメント

トラックバック