ヨハネ神学攻略の鍵の節2010年10月12日 23時15分

 「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。」(ヨハネの福音書12:31)

 昨夜以来、このヨハネ12章31節について思い巡らしています。

 新約聖書のヨハネの福音書の神学を理解する上で、この節は非常に重要な鍵を握っていることに気付きました。

 ポイントは、「この世を支配する者」をどう理解するかです。

 注解書のこの節の説明を見ると、どの注解書にも「この世を支配する者」とは「サタン(悪魔)」のことだと書いてあります。

 確かにそうなのでしょう。でも、それでは「悪」の全てを含むことになりますから、このヨハネの福音書の神学が拡散してボンヤリしたものになってしまいます。ヨハネの福音書の解釈が多様に広がり過ぎているのは、そのせいではないかということに気付きました。

 記者ヨハネは、単純に「この世を支配する者」=「悪魔」とはせず、もっと絞り込んでいるのではないか、というのが今の私の考えです。何に絞り込まれているかと言うと、そのヒントは「追い出す」という同じ動詞が使われている2章15節にあります。

「(イエスは)羊も牛もみな、宮から追い出し、・・・」(ヨハネ2:15)

 つまり「神殿至上主義者」です。神殿至上主義という悪は悪魔が与えているわけですから、突き詰めれば悪魔と同じことですが、「この世を支配する者」を「神殿至上主義者」と考えれば、ヨハネの神学が格段にシャープに浮き上がって来ます。

 神殿の中心は聖所であり至聖所ですから、つまり「ヨハネの神学とは聖(ホーリネス)の神学」であると焦点が極めてシャープになります。

 焦点がシャープになる事例の最たるものとして、11章のラザロの復活が挙げられます。この11章は本当に様々な解釈が可能で、ヨハネの福音書を分かりにくいものにしていると思いますが、「聖(ホーリネス)」に焦点を合わせると、次のような解釈になります。

 イエスが生き返らせたラザロは死後4日もたっており、マルタがイエスに

「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」(ヨハネ11:39)

と言ったほどでした。旧約聖書によれば、死体は汚れたものですから、まして臭くなった死体など汚れたものの中でも最悪のものと言ってよいでしょう。その最悪に汚れたものでさえ、イエスは生き返らせることで、きよめる力を持っているのだ、という解釈が成り立ちます。
  それはつまり、人をきよめることができるのは、神殿に捧げる動物のいけにえではなくイエス・キリストである、という強烈なメッセージを、ラザロの復活は放っているのだということです。

 いかがでしょうか。
 ヨハネの神学を聖(ホーリネス)で整理する作業を始めてみようかと、いま思い始めています。

 ヨハネの学びが、ますます楽しくなってきました ^^

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