『伝道者の書』からのメッセージ ― 2009年06月14日 06時45分
先月、深川教会の壮年会の例会で旧約聖書の『伝道者の書』3,4章について20分ぐらいの話をしました。今日行われる、今月の例会でも5,6章についても引き続き、話をすることになりました。先週、急に頼まれました ^^;
『伝道者の書』は読み込めば、読み込むほど味わいがあると感じています。未熟ですが、原稿をまとめたので、こちらにもアップします。
『伝道者の書』5, 6章
きょうは先月の3,4章に引き続き、今月の5,6章もまた、私のほうでお話をさせていただくことになりました。よろしくお願いいたします。
前回は、3章、4章を見ながら、旧約の時代の『伝道者の書』の記者が感じている人生の空しさを通じて、新約の時代を生きる私たちに与えられたイエス様の恵みの大きさを、より鮮明に感じ取ることができるのだということをお話ししました。
さて、その、前回のこの会では私のすぐ右隣にO兄が座っておられました。そのわずか1週間後に天に召され、ほんの短いお交わりでしたが、とても寂しく思います。でも寂しくても、悲しいことではないというのが、私たち、イエス・キリストを信じて洗礼を受けた者に与えられた素晴らしい恵みです。このことを覚えて、改めてその恵みに感謝したく思います。
私たちのこの世の人生が、残りあと何年かは神のみぞ知るですが、私たちは神の国に入ることが約束されています。これが新約の時代を生きる私たちに与えられた大きな恵みです。しかし、旧約の時代に生きた『伝道者の書』の記者は、自分の人生が残りわずかになってきた時に、自らの人生を振り返り、大きな空しさを感じています。これは一体、どういう心理でしょうか。きょうの5,6章の準備にあたり、1章から4章までを改めて読み返してみて、新たに思ったことがありますので、きょうは、まず始めにそのことからお話しさせていただきます。
過去を振り返って「すべてが空しい」と言っている『伝道者の書』の記者も、過去に実際に事に当たっていた時には、喜びをもって何でもしていました。2章10節に「実に私の心はどんな労苦をも喜んだ」とあります。しかし、自分の人生が残り少なくなってきた時、それらがとてもつまらないものに思えてしまいました。直後の11節で「しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。」と言っています。
昨年の10月に淀橋教会で行われた聖化大会に講師として招かれたビクター・ハミルトン先生がこんなことをおっしゃっていました。ユダヤ人が時間の中を進んで行く感覚は、ボートを漕ぐように、後ろ向きに進んで行く感覚なのだそうです。出エジプトの出来事を大切にしており、そのことを絶えず忘れないように進んでいるからのようです。私たちには未来のことは一切分かりませんし、過去のことは良く見えているわけですから、その感覚は私たちにも理解できます。
私は、今回のメッセージの準備をしていて、この『伝道者の書』の記者も後ろ向きになって過去を見ながら、この書を記したのではないかと思いました。そうすると、一番手前に栄華を極めた自分の王様としての暮らしがあり、ずっと遠方に、自分の先祖の墓が小さく見えます。この記者の先祖たちの最期は聖書にどのように記されているでしょうか。
アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた(創世記25章8節)
ヤコブは子らに命じ終わると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた。
(創世記49章33節)
こうして、ダビデは彼の先祖たちとともに眠り、ダビデの町に葬られた。(列王記第一2章10節)
ソロモンは彼の先祖たちとともに眠り、彼の父ダビデの町に葬られた。(列王記第一11章43節)
今までエルサレムにいた誰よりも知恵があり、強大な王国を築いた『伝道者の書』の記者も、死ねば先祖たちと同じ狭くて暗い墓に入って眠ります。すぐ目の前に、つい最近までの王様としての派手な暮らしがあるのに、背中のすぐ後ろには狭くて暗い墓が迫っています。背中の墓は見えませんが、先祖の墓は遠方に見ることができます。記者は、自分がたどって来た道と、自分がこれから一緒に入る先祖たちの墓とを同じ視野に入れて、じっと見つめていたのではないかと私には思えます。この時、記者は自分の知恵を頼りにして生きてきたことの空しさを感じていたのではないでしょうか。
きょうは5章と6章を、そのような視点から見てみることを、お許しください。
まず、5章1節から7節。神の宮で礼拝を捧げる時の注意事項ですが、神に向かって多くのことを祈ることは、決して悪いことではないと思います。念仏のように同じ言葉を繰り返してはいけませんが(マタイ6::7)、様々なことを祈るのは良いはずです。しかし、記者は3節で「ことばが多いと愚かな者の声となる」と言っています。これは、かつて王であった記者が、自らの知恵の多さに高ぶり、神の前で多くの言葉を弄したことを恥じているのではないかと私には思えます。
8節、「ある州で、貧しい者がしいたげられ、権利と正義がかすめられるのを見て驚いて」いたのは、記者だったのかもしれません。しかし、そのような不正をして私腹を肥やす者も、上の者が見ており、彼らにもやがては死が訪れます。彼らもどうせ死ぬのだから、驚かなくてもいいではないか、ということかもしれません。
10節から14節。富や財産に関することは、死が近づいている記者にとって、特にむなしく思えたようです。16節では「痛ましいことだ」と言っています。15節にあるように、死ぬ時には、「何一つ手に携えていくことができない」からです。
17節。記者は王であった時、自分の国の民たちの「多くの苦痛、病気、そして怒り」を見てきたのでしょう。
そんな記者の結論が、18節です。「見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。」これまで、私は記者が出したこの結論を、知恵がある者の結論としては、あまりに軽い気がして、この言葉の背後にあることなどを考えてみようという気には全くなりませんでしたが、きょう最初に述べたような、記者が後ろ向きになって自分の人生を振り返っている図を思い浮かべる時、この18節で記者が言いたいことが少し理解できるような気がします。思うに、『伝道者の書』の記者の歩んで来た道は、記者の知恵を駆使してきたものであったため、あまりにゴテゴテと余計な装飾がある、とても見苦しい感じのする通りになってしまっていたのではないかと思います。それに対して18節のような単純な生き方をしてきた人の通ってきた道は、とてもスッキリとしている、そのような気がしますが、いかがでしょうか。19節、20節は18節をさらに説明したものです。
6章に入ります。1節、2節は新共同訳のほうが分かりやすいと思いました。新共同訳では、「悪」を「不幸」と訳し、「外国人」を「他人」と訳して、次のように訳しています。
「太陽のもとに、次のような不幸があって、人間を大きく支配しているのを私は見た。ある人に神は富、財宝、名誉を与え、この人の望むところは何ひとつ欠けていなかった。しかし、神は、彼がそれを自ら享受することを許されなかったので、他人がそれを得ることになった。これまた空しく、大いに不幸なことだ。」
新約時代の私たちは、神様がすぐ近くに共にいてくださる、そのことだけで幸福を感じることができますが、旧約の時代は、神様が共にいてくださると言っても、近くではなく、天におられるわけですから、神様が共におられるということだけでは十分な幸福感を得ることができず、どうしても、それ以外の、世的な楽しみを追求するという傾向が見て取れます。イエス様の恵みを知っている私たちから見ると、そのように世的な喜びに満たされなければ幸福感を感じられない、ということ自体が不幸なことだと思います。旧約の時代の人々は本当に困難の中にあったことを感じます。
そういうわけですから、3節の百人の子どもを持つような子宝に恵まれ、長生きするということは、神様に大変に祝福されているわけですが、その人の死を嘆いてくれる人間が側にいないなら、大変な不幸だということになってしまいます。「死産の子のほうが彼よりはましだ」というのは強烈ですね。4節から6節はその死産の子についてのさらなる説明です。神様が本当に遠い存在であることを思います。
ここで、新約の恵みに目を転じたく思います。ピリピ人への手紙2章6節を開いていただけますか。8節までをお読みします。
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」
『伝道者の書』を読んでから、このピリピの箇所を読むと、イエス様の愛の尊さが本当に良く分かりますね。イエス様は、『死産の子のほうがましだ』と言って苦しんでいる人々の中に降りて来てくださり、慰めを与えてくださり、私たちを神の国へと導いて行ってくださいます。ですから、私たちは前を向いて歩いて行くことができます。この先、何があるか分かりませんが、何があってもイエス様が共にいてくださるという安心感があります。
旧約の時代も、神様は人々を大きな愛で見ていてくださいました。しかし、神様があまりに大きな存在であるがゆえに、多くの人々にとっては、かえって遠くに感じる存在になってしまっていました。でも私たちは、共にいてくださるイエス様を通じて神様の愛の大きさを知ることができます。神の国に入ることができれば、もっと良く知ることができるでしょう。私たちには、こういう楽しみがあります。神様の愛の大きさは人知をはるかに越えた大きさです。その大きさゆえに遠くに感じてしまった旧約の時代の人々のことを思うとき、イエス様が近くにいてくださることの恵みの大きさを、より一層実感します。最後に、エペソ人への手紙5章17節から19節までを、ご一緒にお読みして、今日のメッセージを閉じたく思います。
「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」
『伝道者の書』は読み込めば、読み込むほど味わいがあると感じています。未熟ですが、原稿をまとめたので、こちらにもアップします。
『伝道者の書』5, 6章
きょうは先月の3,4章に引き続き、今月の5,6章もまた、私のほうでお話をさせていただくことになりました。よろしくお願いいたします。
前回は、3章、4章を見ながら、旧約の時代の『伝道者の書』の記者が感じている人生の空しさを通じて、新約の時代を生きる私たちに与えられたイエス様の恵みの大きさを、より鮮明に感じ取ることができるのだということをお話ししました。
さて、その、前回のこの会では私のすぐ右隣にO兄が座っておられました。そのわずか1週間後に天に召され、ほんの短いお交わりでしたが、とても寂しく思います。でも寂しくても、悲しいことではないというのが、私たち、イエス・キリストを信じて洗礼を受けた者に与えられた素晴らしい恵みです。このことを覚えて、改めてその恵みに感謝したく思います。
私たちのこの世の人生が、残りあと何年かは神のみぞ知るですが、私たちは神の国に入ることが約束されています。これが新約の時代を生きる私たちに与えられた大きな恵みです。しかし、旧約の時代に生きた『伝道者の書』の記者は、自分の人生が残りわずかになってきた時に、自らの人生を振り返り、大きな空しさを感じています。これは一体、どういう心理でしょうか。きょうの5,6章の準備にあたり、1章から4章までを改めて読み返してみて、新たに思ったことがありますので、きょうは、まず始めにそのことからお話しさせていただきます。
過去を振り返って「すべてが空しい」と言っている『伝道者の書』の記者も、過去に実際に事に当たっていた時には、喜びをもって何でもしていました。2章10節に「実に私の心はどんな労苦をも喜んだ」とあります。しかし、自分の人生が残り少なくなってきた時、それらがとてもつまらないものに思えてしまいました。直後の11節で「しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。」と言っています。
昨年の10月に淀橋教会で行われた聖化大会に講師として招かれたビクター・ハミルトン先生がこんなことをおっしゃっていました。ユダヤ人が時間の中を進んで行く感覚は、ボートを漕ぐように、後ろ向きに進んで行く感覚なのだそうです。出エジプトの出来事を大切にしており、そのことを絶えず忘れないように進んでいるからのようです。私たちには未来のことは一切分かりませんし、過去のことは良く見えているわけですから、その感覚は私たちにも理解できます。
私は、今回のメッセージの準備をしていて、この『伝道者の書』の記者も後ろ向きになって過去を見ながら、この書を記したのではないかと思いました。そうすると、一番手前に栄華を極めた自分の王様としての暮らしがあり、ずっと遠方に、自分の先祖の墓が小さく見えます。この記者の先祖たちの最期は聖書にどのように記されているでしょうか。
アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた(創世記25章8節)
ヤコブは子らに命じ終わると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた。
(創世記49章33節)
こうして、ダビデは彼の先祖たちとともに眠り、ダビデの町に葬られた。(列王記第一2章10節)
ソロモンは彼の先祖たちとともに眠り、彼の父ダビデの町に葬られた。(列王記第一11章43節)
今までエルサレムにいた誰よりも知恵があり、強大な王国を築いた『伝道者の書』の記者も、死ねば先祖たちと同じ狭くて暗い墓に入って眠ります。すぐ目の前に、つい最近までの王様としての派手な暮らしがあるのに、背中のすぐ後ろには狭くて暗い墓が迫っています。背中の墓は見えませんが、先祖の墓は遠方に見ることができます。記者は、自分がたどって来た道と、自分がこれから一緒に入る先祖たちの墓とを同じ視野に入れて、じっと見つめていたのではないかと私には思えます。この時、記者は自分の知恵を頼りにして生きてきたことの空しさを感じていたのではないでしょうか。
きょうは5章と6章を、そのような視点から見てみることを、お許しください。
まず、5章1節から7節。神の宮で礼拝を捧げる時の注意事項ですが、神に向かって多くのことを祈ることは、決して悪いことではないと思います。念仏のように同じ言葉を繰り返してはいけませんが(マタイ6::7)、様々なことを祈るのは良いはずです。しかし、記者は3節で「ことばが多いと愚かな者の声となる」と言っています。これは、かつて王であった記者が、自らの知恵の多さに高ぶり、神の前で多くの言葉を弄したことを恥じているのではないかと私には思えます。
8節、「ある州で、貧しい者がしいたげられ、権利と正義がかすめられるのを見て驚いて」いたのは、記者だったのかもしれません。しかし、そのような不正をして私腹を肥やす者も、上の者が見ており、彼らにもやがては死が訪れます。彼らもどうせ死ぬのだから、驚かなくてもいいではないか、ということかもしれません。
10節から14節。富や財産に関することは、死が近づいている記者にとって、特にむなしく思えたようです。16節では「痛ましいことだ」と言っています。15節にあるように、死ぬ時には、「何一つ手に携えていくことができない」からです。
17節。記者は王であった時、自分の国の民たちの「多くの苦痛、病気、そして怒り」を見てきたのでしょう。
そんな記者の結論が、18節です。「見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。」これまで、私は記者が出したこの結論を、知恵がある者の結論としては、あまりに軽い気がして、この言葉の背後にあることなどを考えてみようという気には全くなりませんでしたが、きょう最初に述べたような、記者が後ろ向きになって自分の人生を振り返っている図を思い浮かべる時、この18節で記者が言いたいことが少し理解できるような気がします。思うに、『伝道者の書』の記者の歩んで来た道は、記者の知恵を駆使してきたものであったため、あまりにゴテゴテと余計な装飾がある、とても見苦しい感じのする通りになってしまっていたのではないかと思います。それに対して18節のような単純な生き方をしてきた人の通ってきた道は、とてもスッキリとしている、そのような気がしますが、いかがでしょうか。19節、20節は18節をさらに説明したものです。
6章に入ります。1節、2節は新共同訳のほうが分かりやすいと思いました。新共同訳では、「悪」を「不幸」と訳し、「外国人」を「他人」と訳して、次のように訳しています。
「太陽のもとに、次のような不幸があって、人間を大きく支配しているのを私は見た。ある人に神は富、財宝、名誉を与え、この人の望むところは何ひとつ欠けていなかった。しかし、神は、彼がそれを自ら享受することを許されなかったので、他人がそれを得ることになった。これまた空しく、大いに不幸なことだ。」
新約時代の私たちは、神様がすぐ近くに共にいてくださる、そのことだけで幸福を感じることができますが、旧約の時代は、神様が共にいてくださると言っても、近くではなく、天におられるわけですから、神様が共におられるということだけでは十分な幸福感を得ることができず、どうしても、それ以外の、世的な楽しみを追求するという傾向が見て取れます。イエス様の恵みを知っている私たちから見ると、そのように世的な喜びに満たされなければ幸福感を感じられない、ということ自体が不幸なことだと思います。旧約の時代の人々は本当に困難の中にあったことを感じます。
そういうわけですから、3節の百人の子どもを持つような子宝に恵まれ、長生きするということは、神様に大変に祝福されているわけですが、その人の死を嘆いてくれる人間が側にいないなら、大変な不幸だということになってしまいます。「死産の子のほうが彼よりはましだ」というのは強烈ですね。4節から6節はその死産の子についてのさらなる説明です。神様が本当に遠い存在であることを思います。
ここで、新約の恵みに目を転じたく思います。ピリピ人への手紙2章6節を開いていただけますか。8節までをお読みします。
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」
『伝道者の書』を読んでから、このピリピの箇所を読むと、イエス様の愛の尊さが本当に良く分かりますね。イエス様は、『死産の子のほうがましだ』と言って苦しんでいる人々の中に降りて来てくださり、慰めを与えてくださり、私たちを神の国へと導いて行ってくださいます。ですから、私たちは前を向いて歩いて行くことができます。この先、何があるか分かりませんが、何があってもイエス様が共にいてくださるという安心感があります。
旧約の時代も、神様は人々を大きな愛で見ていてくださいました。しかし、神様があまりに大きな存在であるがゆえに、多くの人々にとっては、かえって遠くに感じる存在になってしまっていました。でも私たちは、共にいてくださるイエス様を通じて神様の愛の大きさを知ることができます。神の国に入ることができれば、もっと良く知ることができるでしょう。私たちには、こういう楽しみがあります。神様の愛の大きさは人知をはるかに越えた大きさです。その大きさゆえに遠くに感じてしまった旧約の時代の人々のことを思うとき、イエス様が近くにいてくださることの恵みの大きさを、より一層実感します。最後に、エペソ人への手紙5章17節から19節までを、ご一緒にお読みして、今日のメッセージを閉じたく思います。
「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」
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